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川上哲治の野球人生

川上哲治の野球人生

いまや世界一の日本野球は、そのもとをたどればチームプレーを重視してきた「川上野球」に行き着きます。選手としても、指導者としても超一流の川上氏の偉大な足跡を、わが郷土の誇りとし、多くの皆さまに伝えたい。その想いからこの「川上哲治の野球人生」を作成しました。

川上哲治記念事業実行委員会

川上哲治

出 身 地 熊本県球磨郡大村(現・人吉市)
生年月日 1920年3月23日
身 長 174cm 体 重 75kg
投球・打席 左投左打 守備位置 一塁手・投手
プロ入り 1938年 初出場 1938年
最終出場 1958年、1975年3月23日(引退試合)
経 歴
()は在籍年
熊本県立工業学校(旧制)
東京巨人軍
読売ジャイアンツ
(1938~1942,1946~1958)
 

メッセージ

川上哲治氏から、野球少年・少女たちへ

(1)基本を身につける事。
(2)野球は団体競技なので、チームワークを第一に考える事。
(3)反復練習しながら、工夫しながら少しでも前へ進むこと。
(4)引っ込み思案はダメ。積極的にやってみること。
(5)野球をやりながら人生の土台を作る事。
(6)体力・精神力をつけ将来につなげる事。

中学生に対して

野球をやる人は、体力・チームワークを身に付けている人だから、他から模範とされるような人になれ。いじめをしている人を見たらやめさせる、友達にもいじめをさせない。

エピソード

〇1937年の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)に出場(準優勝・この大会の優勝校は野口二郎を擁した中京商業学校)した時、決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒きました。高校野球の敗者が甲子園の砂を持ち帰るのは、これがきっかけだと言われています。
〇1956年5月31日の巨人×中日戦で川上選手は、中山俊丈投手からレフトへ見事に流し打ち、2000本安打を達成しました。これが日本初の2000本安打です。しかも、出場1646試合目という異例のスピード記録で、のちにイチローが日米通算出場でこの記録を破ったものの、現在も日本プロ野球では最速記録の歴代1位に輝いています。
川上哲治 著作
■遺言(2001年5月・文芸春秋)
■勝つために必要な五つの方法(1997年6月・ごま書房)
■監督の条件(1995年7月・読売新聞社)
■勝機は心眼にあり 球禅一如の野球道
(1991年5月・ベースボールマガジン社)

タイトル

MVP:3回―1941年・1951年・1955年
首位打者:5回―1939年・1941年・1951年・1953年・1955年
本塁打王:2回―1940年・1948年
打点王:3回―1939年・1941年・1955年
ベストナイン:10回―1940年・1947年~1949年・1951年・1953年・1955年~1958年

表  彰

日本シリーズMVP(1953年)
日本シリーズホームラン王賞(1952年)
日本シリーズ首位打者賞(1953年)
日本シリーズ技能賞(1958年)
オールスターMVP(1951年第1戦)
野球殿堂入り(1965年)
勲四等旭日小綬賞(1992年)
文化功労者(1992年)
人吉市名誉市民(1992年2月11日)

記  録

シーズン打率:3割7分7厘(1951年)※歴代8位
シーズン打率3割以上:12回(1939年~1941年・1947年・1949年~1956年)※歴代3位タイ
シーズン三振数:6(1951年)※最少三振日本タイ記録
最多安打:6回(1939年・1941年・1947年・1953年・1955年・1956年)※歴代2位
打撃ベストテン入り:15回(1938年秋~1941年・1947年~1957年)※歴代3位
8年連続シーズン打率3割以上(1949年~1956年)※歴代2位タイ
9打席連続安打(1939年4月9日~9月11日)
10試合連続打点(1949年4月3日~4月14日)
1試合3三塁打(1949年6月21日)※日本タイ記録
1イニング2本塁打(1948年5月16日)
逆転サヨナラ満塁本塁打(1949年4月12日)※史上初
日本シリーズ通算打率:3割6分5厘(159打数58安打)※80打数以上では、歴代1位
サイクルヒット(1954年7月25日)
通算2000本安打達成(1956年5月31日)※史上初。1646試合目
通算猛打賞:194回※歴代2位
オールスター出場:7回(1951年~1954年・1956年~1958年)
通算1000試合出場(1950年10月19日)※4人目
監督歴14年で日本一(日本シリーズ制覇)11回

生い立ち

 川上哲治は、大正9年(1920)2月、球磨郡大村(現在の人吉市南泉田町)に川上伊兵次・ツマの長男として生まれました。家は、船宿を営み裕福な家庭でした。しかし、鉄道の開通など交通網の整備が進むと、生活は次第に苦しくなっていきました。小学生時代の川上少年は、父や母を助けるために、朝と夕方、豆腐やこんにゃくを売って歩いていました。

少年野球

 5歳の頃、布製のボールを与えられ、父の伊兵次から野球の手ほどきを受けました。父は、「投手というものは、的に向かったら、投げ終わるまで目をそらすな!」と厳しく指導を行いました。
大村尋常高等小学校4年制の時、野球部に入部、正選手となり、打順は2番、守備はライトでした。その年の九州大会では、決勝戦で見事に右中間を破るランニングホームランを放ち、これが決勝打となって2対0で九州一となりました。5年生になると恩師「土肥敏雄先生」の厳しい指導のもとでエースで4番をつとめました。

高校時代

 当時の進路先は、家の手伝いか、会社勤めが主でした。学業の成績も優秀だった川上少年は、当然旧制中学校へ進学となるところでしたが、熊本県立工業学校(現在の熊本工業高校、以後「熊工」)の野球部から誘いがあり、熊工への進学を決意しました。
 しかし進学後、大きな困難が待ちかまえていました。家庭教師と野球の練習、勉強という3つが重なり、どれを中心においたらよいのか迷い、苦しさに耐えきれず途方に暮れてしまいました。下宿先の院長の勧めで、熊工を中退し、翌年、野球部のない済々黌に進学し直しましたが、心が荒れ命を絶とうとも考えるようになりました。そこで父伊兵次は、親子の強い絆で、川上少年を温かく迎え入れ、人吉へ帰すことにしました。
 しばらくして人吉中学に転校した夏休み、大村尋常高等小学校の先輩で熊工野球部に在籍する田上選手と野球部長の坂梨先生から「もう一度熊工で野球をしよう」と誘いを受けました。2人の強い説得もあり、父の了解を得た川上少年は、新しい希望に満ちた野球ができる熊工へ再度転入することができました。そこで、名捕手吉原正喜選手と出会い、川上少年の野球人生は大きく開花していくこととなります。

甲子園大会、そして全国制覇へ

 川上少年は、ピッチャーとして同学年の吉原正喜捕手とバッテリーを組み、昭和12年(1937)、夏の甲子園全国大会で決勝戦に進出し、中京商業と戦いましたが、3対1で涙をのみました。しかし、3ヶ月後、東京の神宮中等学校野球大会では、宿敵中京商業を破り、堂々の全国優勝を果たしました。

巨人軍入団

 昭和11年(1936)に生まれたばかりの「プロ野球」の球団は、戦力となる優秀な選手を探すスカウト活動を行っていました。巨人軍は、九州ナンバーワンと言われていた吉原正喜捕手を獲得しました。哲治の父は、門司鉄道管理局の野球部入りを希望していましたが、この吉原選手の強い勧めで、あこがれの巨人軍への入団を決意しました。入団の条件は、支度金三百円、月給百十円と、当時の一般的な給与と比べるととても良い条件でした。哲治は、この契約金三百円と月給の半分を仕送りすることを約束しました。少年時代、貧しく苦しかった思い出があったため、何とか親孝行をしたいと願っていたのでしょう。
 巨人軍には投手として入団しましたが、その後バッティングの才能が認められ、一塁手に転向しました。昭和16年(1941)までの4年間で、投手成績11勝9敗、ホームラン王、最高殊勲賞、首位打者、打点王など輝かしい成績を残しました。しかし、昭和17年(1942)太平洋戦争が激しくなり、陸軍に召集され、野球を中断せねばならなくなりました。昭和20年(1945)8月、終戦を迎え、人吉へ帰郷し母親を手伝って農業をすることにしました。
 しばらくすると、巨人軍から強い復帰の誘いがあり、戦後の食料困難の中、バットを鍬に持ちかえていた川上選手も、再びプロ野球に戻る決意をしました。
 混乱した終戦直後であっても、プロ野球は国民的な人気を集め、特に川上選手の「赤バット」、大下選手の「青バット」は、ファンに鮮烈な印象を与え、当時の暗い世の中を明るくしていました。
 昭和23年(1948)、川上選手は、青田選手とともに本塁打王となり、この二人の活躍で巨人軍の人気もさらに高まってきました。昭和24年(1949)には、戦後初優勝し、巨人軍は全国の人々から大きく賞賛されました。また、川上選手の打球は「弾丸ライナー」ともいわれ、観る人の心をとらえて放しませんでした。もともと右利きだった川上選手は、小学校低学年の時に負傷した右手をかばい左手を鍛えて左右両方の手で投げ、打てるように努力をしました。左打者でありながら、もともとの右利きの握力と「ダウン・スイング」の考えが結びついて、弾丸ライナーが生まれました。これは、川上選手の小さい頃からの努力の結晶です。
 そして昭和31年(1956)ついに、史上初の2000本安打を達成し、「打撃の神様」とたたえられました。現役時代の背番号「16」は、巨人軍の永久欠番になっています。

巨人軍監督

 昭和36年(1961)に水原監督の後を受けて巨人軍監督に就任しました。監督川上哲治は、米大リーグドジャースの戦法を採り入れ徹底したチームプレーを優先するスタイルを築きました。そして、スーパースター長嶋や王をはじめとして金田・堀内・高橋(一)などの看板選手、俊足柴田、堅守の高田・土井、名捕手森といった後世に名高い一流選手を育てました。昭和48年(1973)までに11回のリーグ優勝を果たし、その11回すべてで日本シリーズを制しています。特に昭和40年(1965)から昭和48年(1973)まで、日本シリーズ9連覇(V9)は球史に残る偉業です。昭和50年(1975)長嶋茂雄に監督を引き継いだ後は、野球解説や評論家としても活躍し、長年にわたり少年野球の普及育成に尽力しました。その功績が認められ平成4年(1992)勲四等旭日小綬賞を授賞し、文化功労者として表彰されています。
打撃の神様
川上哲治の野球人生
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少年野球はプロ野球とは違う。
勝たなくてもいい。
それよりも勝つために
「努力」する過程がもっと大事だ。
 
 
 
参考資料 : 川上哲治物語「打撃の神様」(人吉市教育委員会)
相良七百年 歴史と伝統が息づく人吉市(人吉市教育委員会)
NPO法人人吉市体育協会
〒868-0015
熊本県人吉市下城本町1566-1
人吉スポーツパレス内
TEL.0966-22-1688
FAX.0966-22-1560
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